会には時々病気を患っている小さい子供さんとどう接すればよいか分からないという悩みで相談してこられる会員さんがいらっしゃいます。年齢が小さい場合、病気、治療、生活上の制限などをどう感じているか、十分に表現することができないし、また親も本人に対して、どのように説明すれば接すればよいか分かりにくいところがあります。
私自身、ネフローゼ症候群を患ったのは23歳の時で成人になってからのことであったため、自分の経験はこのような方々にとってあまり参考になりません。色々と考えた結果、思いついたのは、病気当時まだ幼かったのですが、今は高校生以上の年齢になっている方々に聞いてみることです。このような方々なら今、病気当時のことや気持ち、感じ方などを正確に表現できるため、お話しは小さな子供さんを理解するのにきっと役立つと思うからです。
そこで先日、病気を克服された何人かの元会員の方を選び、ご質問のお手紙をお送りしました。質問事項は以下のようなものです。
1、病気、検査、治療、再発、生活上の色々な制限などについて、子供心にどのように感じ、思ったのか。何が特に辛かったか。どのようにしてほしかったのでしょうか。
2、腎康丸の服用で良かった服用の仕方がありましたか。
3、学校などで辛いと思ったことはありましたか。どのようにしてほしかったのでしょうか。
4、この病気で悩んだことはありますか。
この他に、子供の頃に思っていたことや大人になり改めて思うことなど、何でも結構ですので、是非お教え下さい。或いは他に何かのアドバイスがありましたら、合せてお聞かせ願えれば幸いです。
皆さんから早速ご返事が来ました。皆さんはそれぞれ病気の時を振り返って、色々な貴重なご経験を教えて下さいました。今闘病中の方々のご参考のために皆さんからのお便りを掲載させていただきます。
●大阪府のAさんからのお手紙
(本人:女性、入会時3歳、現在16歳、ネフローゼ症候群微小変化型)
レインボー会
矢野真理子様
朝夕めっきり冷え込む季節となりました。お元気でお過ごしでしょうか。お手紙を読ませていただきました。アドバイスになるかどうか心配ですが、書かせていただきます。
娘がネフローゼを発症したのはH15年12月。娘は3歳だったため、高2の現在に病気のことを振り返ってもらいましたが、ほとんど覚えていませんでした。なので私の振り返りになりますが。再発を含め半年間入院しました。一番辛かったのは大好きなお姉ちゃんに会えないことでした。個室で付き添いの私と2人、毎日お姉ちゃんが週末会いに来てくれることを楽しみに過ごしていました。幼稚園に通っていた2つ上の長女から折り紙やお手紙やたくさんのプレゼントを持ってきてくれ、一緒に歌ったり踊ったり、とても喜んでいました。だけど帰る時間が近づくと目にいっぱい涙をため、唇を噛みしめ、布団をかぶって辛さをこらえていたことを思い出します。私が辛かったことは長女と一緒にいてあげられなかったことです。長女は半年間主人と祖父母とともに過ごしました。一番お母さんが恋しかった幼稚園の時期にたくさん我慢をさせてしまいました。だけどその分人を思いやれる優しい子に育ってくれています。
生活上の制限は外で遊べない、走り回れない疲れることが出来ず、湯船にも長時間つかれませんでした。みんなと同じ食事やおやつが食べられない予防も含め、いつもマスクをして過ごしていました。後は蚊にかまれないように注意していました。
幼稚園は皆より2ヶ月遅れの入園となり、うまく溶け込めるか心配しましたが、それは取り越し苦労でした。初めの1ヶ月は疲れるため半日だけの登園でしたが、娘が帰る時、お友達が何人も見送ってくれ、帽子を被せてくれる子、靴を履かせてくれる子など、お世話を焼いてくれる子がたくさんいて、とても微笑ましく安心したのを覚えています。
腎康丸の服用は病院の先生には何となく言いづらく(西洋医学と東洋医学の為)私は自分自身の信じた道を行こうと決めていました。なのでどちらの薬も決められた通り飲ませていました。娘は3歳だった為、そこに本人の意思はありません。腎康丸は娘には大き過ぎたので、3〜5mmほどの大きさに丸め直し、水で飲ませていました。「これが飲めたら、アレをやろうね。」という感じで。娘が積極的に服用しようとしたことはきっと1度もなかったように思います。娘の現在の記憶では「キャラメルのような包み紙」、「粘土のような黒い丸」、「苦かったような記憶」という程度です。服用させるには親の根気が必要です。
この病気で悩んだことはそれは今もです。やはり完治という終わりはなく、寛解だということです。現在まで再発することはなく、学校の尿検査でもいつも正常値です。今は高校でダンス部、チァリーデイングも水泳も心配なく出来ています。本人は好きなことを制限なく出来ており、何の問題もないです。しかし若さの特権なのか異常に寝たりするとやはり人より疲れやすいのかと少し心配になったり。娘が結婚し、出産という大きな体の変化があった時大丈夫なのか?その子供は?等悩みは尽きないでしょう。
長文になりましたが、誰かお一人にでも参考になれば幸いです。天候不順の折柄、ご自愛の程お祈り申し上げます。
●イギリスのBさんからのメール
(本人:男性、入会時3歳、現在20歳、ネフローゼ症候群微小変化型)
レインボー会
矢野真理子様
お久しぶりです。お便り有難うございました。
ご質問にお答えします。
1.息子が腎康丸服用当時は3〜4歳だったため、服用していたことを全く覚えていないそうです。ネフローゼ症候群を患ったことさえも覚えておりませんが、診断されてすぐ、病院に8日間入院した時、下手な医師が手の甲に何度も注射針を入れ直しして、痛い思いをしたのだけは何故か覚えているみたいですが。。。
病院に入院したのもそれっきりですし、その後は自宅にて尿検査をするのみで、再発はしておらず、医師に診てもらうこともなかったです。記憶がないので、息子には特につらかった思いとか全然ないそうです。なので、今回はあまりお役に立てそうもなく申し訳ございません。
2.腎康丸とイチゴ味のヨーグルトを小さなお椀に入れて、スプーンで丁寧に練ってました。それから息子を私のひざの上に座らせて、スプーンで少しずつあげてました。特に嫌がったこともありません。まだ幼かったから出来たことかもしれません。
3.服用当時は学校ではなく保育園でしたが、家から近いので、1時間のお昼休みは家に帰ってきて、昼食と腎康丸をとりました。また、制限なども全くなく、他の園児と一緒の行動をしていたので、特に辛かったこともないと思います。
4.息子本人はネフローゼで悩んだことはありませんが、親の私は再発するか心配しておりました。でも、腎康丸で必ず治ると信じて、頑張って続けました。お陰様で再発することもありませんでした。息子の場合、発症してからすぐ腎康丸を始めたのが良かったのかなと思います。
今年も残りわずかとなってきました。お身体には十分ご留意下さい。
●カナダのCさんからのメール
(本人:女性、入会時7歳、現在23歳、ネフローゼ症候群)
矢野真理子様
本当にお久し振りです。
メール読みましたが、私達の経験がどこまで日本のお母様方や子供達のお役に立てるのかは少し疑問なのです。それというのも、家庭医も専門医もステロイドを使用する事にはひどく消極的でしたし、私達親もできる限り使わずに直したいという気持ちが強かった為、病院に行ったのは、最初に3?4回診断や検査に行っただけなのです。その後2回程専門医が、様子を尋ねに電話があったと、記憶しています。
娘は6歳で発病していますが、小学校はそもそもホームスクールだった為、勉強が遅れてしまう、どうしよう、などと焦る事もありませんでした。まず最初の彼女の生活の変化は、バレエを辞めた事、食べ物にいろいろな制限ができてしまったこと、毎日3回程尿蛋白の検査をしなければならない事、などでした。娘に当時の事を訊ねてみましたが、あまり覚えていないようなのです。そんな大変な病気だとは、当時は思いもしていなかったようです。ただ腎康丸を飲むのは、大変だった、蛋白のチェックは面倒だった、けど、必要なことなんだろうな、という程度だったそうです。
腎康丸は、いつも私がカプセル型に(一つを5?6個?)丸めて彼女は、それを作るはしから飲んでいました。子供にとって嫌な事というのはわかっていましたので、共同作業と思わせる為にも一緒におしゃべりしながら私が作る、を心掛けていたと思います。病気の事も簡単に説明してみんなで一緒に元気になっちゃおー!といいつつ家族3人、同じメニューを食べていたと思います。アレルギー食品を探しながらだった為、毎日1品を新たに加えていく献立で、しばらくは、本当に悲しい食生活でした。当時は、ご馳走を楽しそうに囲む動物達の絵ばかり描いていましたし、あの時の影響なのか、今でも暴飲暴食は全くせず、とても自制心が強い人に成長しました。しかしながら、本人は全く覚えていないと言います。むしろ、病気を抱えていたにもかかわらず、ホームスクール時代は宝物のような素晴らしい思い出だと言ってくれます。我が子がただ能天気なのか、はたまた親の接し方次第で変わるということなのか?そこのところは、よくわかりません。とにかく、そこそこ正直に話す、明るく楽しくを心掛けるということでしょうか?
音楽学校に週3回ほど通っていまして、クラスの前後には子供達が追いかけっこなどをして遊ぶのが恒例になっていましたが、意地悪などをされた事は1度もなかったはずです。
もし、学校を長期お休みをされているような場合でしたら、少しアドバイスできるかも知れません。学校の勉強に関しては、算数さえ教えておけばあとはそれほど心配はいらないのではないでしょうか?小学生であればまだまだ親が十分に教えられると思います。そして図書館から大量の本を毎週借りていました。家族それぞれが、興味のあるトピックで写真や絵がたくさん載っている本を選ぶと十分に子供でも楽しむことができます。教科書以上の知識を楽しく学べると思います。我が家では、学校の教科書はあえて使いませんでした。(親の私達はざっと目を通しましたが。)毎日最低1時間は、子供と二人本気で遊ぶ、これで子供はとても満足感を得ていたと思います。後は、野放し!!でした。ホームスクール時代は、勉強は大丈夫なのかと不安になることもたびたびでしたが、ハイスクールの最初の試験でいきなり学年トップでした。カナダの大学を卒業し、今はアメリカの大学院で勉強中です。
病気になって嫌な事悪かったことがあったように、病気になったからこそのプラスの事もいろいろあったなあと思います。子供にとってお母さんの笑顔は一番のお薬。小さな子供のお母様方は、ぜひ前向きに頑張って!と思います。
●千葉県のDさんからのメール
(本人:女性、入会時3歳、現在19歳、慢性腎炎)
レインボー会
矢野 真理子 様
大変ご無沙汰しております。昨日お手紙をいただきました。
こちらから時折ご連絡を差し上げねばならないところ、わざわざご連絡いただきまして
すみません。またレインボー会の運営を切り盛りしていただいておりまして、感謝の気持ちでいっぱいです。
さて、娘は再発もなく、現在大学2年生になり元気にしております。先日は大学2部バスケットボールで全日本選抜に選ばれ、台湾で試合も行うほど活発にしています。
ご質問いただいた件ですが、本人に聞いたところ、実はあまり小さい頃の事を覚えていないそうです。ですので、若干覚えていた本人の記憶と我々夫婦の記憶を合わせてお答えいたします。
質問1 あまり制限はなかったと思います。ですが通院中、病院の先生に「治療をしない
と死んでしまうよ」と言われたことが非常に心に残った(怖いのと治療を
しなくちゃという義務感みたいな気持ち)そうです。病院で採血されるのは
嫌だなぁとよく思ったそうです。
質問2 服用に関しては色々と試しました。ですが最もよかったのは、大きい腎康丸を
ちぎって小さくし(20個ぐらいの小粒に丸めました)甘くしたヨーグルト
に包むようにして一気に飲み込むというのが良かったです。
長くヨーグルトに入れてしまうと薬の味が染み出てくるので、入れたらすぐに
すくって飲むといった感じです。ですが、風邪を引いたり体調の悪い時は戻し
てしまうので、無理に飲ませない方がいいかも知れません。
質問3 学校では特に病気を感じなかったそうです。それより学校が楽しくて仕様がなかったそうです。
質問4 病気が治らないと遊んだり、スポーツ出来ないと悩んだそうです。だから絶対
薬は飲むと決めていたそうです。
あまり参考にならないと思います。何せ能天気なので、実はあまり深刻になっていなかったのが本人の振り返りです。
人それぞれ性格が違うので捉え方も大きく違います。その中で、病気を治さなけらばという話より、病気が治った後の楽しい事を言い聞かせながら治療を続けるのが良いのかなぁあと思っています。なぜなら、実際、この薬で治って元気で楽しく生活している人がいるからです。この事実をうまく子供達に伝えていければ治療に前向きになってくれるのではないでしょうか。
急に寒くなってきました。お体に気をつけて日々をお過ごし下さい。私共に出来ることがあれば何なりとお申し付け下さい。
●富山県のEさんからのお手紙
(本人:男性、入会時6歳、現在23歳、紫斑病性腎炎)
矢野様
レインボー会には大変お世話になっていました。そして吉田様にもお世話になっていました。本当にありがとうございました。息子は24歳です。社会人となり1人で生活をしています。高校まで野球を続け、大学から1人で生活をしています。特に体の不調を訴えることなく元気にしています。
今思うと…すっかり忘れてしまっていることが多い位、その後は健康にそして何でもない普通の生活をしています。どうだったかな?と…。
1、ずいぶん前に息子に「この時(病気の時)どうだった?というようなことを聞いたことがありました。返事は「ん!テレビを病院でみとった…」とだけであとは「痛くもなかったし」というような答えだったと思います。この時は既にすっかり健康的な生活で野球の苦しい毎日の時間の方が辛かったようで病気の記憶が薄れていたみたいです。この時母親として今が楽しいようで充実しているようでほっとしたのを覚えています。制限…疲れないようにとしていましたが、何だか友達とよく遊んでいました。友達と遊ぶことが一番疲れなかったようです。
息子は小学校入学前の9月〜11月までの入院だったので、あまりにも病室ばかりにいるので「このままずっとここ!」等と言っていましたが…。
2、服用の仕方は小さく丸めて飲んでいました。
3、学校での制限ですね。体育や遠足、運動会は1年生の時不参加でした。胸が痛いこともありましたが、一年経つうちに制限のある生活に慣れてしまい、特に何も思わなくなりました。その頃息子が良くなっていき制限が全くなくなりました。
4、病気で悩んだというか申し訳ないという気持ちでいっぱいになりました。当たり前のことを出来ないもどかしさ等で申し訳なかったです。
答えになっているかは分からないのですが、将来のことを考えた時、息子が暮らしていけるよう、デスクワークが出来るような仕事、知識がいかせる仕事ができるよう、家庭で勉強については少々強く勧めたと思います。健康を取り戻してからは自分から勉強には取り組んでいましたが、やはり親としては将来を考えます。体力の仕事では無理かもと思いましたから。
息子は病気だったのかと思うぐらい健康的です。息子からですが、病気のことを5、6歳の時に話されても全く何のことかわからないそうです。話さなくてもいいと思うと言っていました。
この時、家族中入院時以外は全く普通でした。困ったこととか傷つくことも多かったのですが、普通でした。普通が難しいのですが、少々制限があるだけで後は家族でいられるから何だかそれだけで嬉しかったのを強く覚えています。
全くお役に立てているかは分からないのですが、またお役に立てることが少しでもありましたら、連絡を頂けると思います。それでは失礼いたします。
●三重県のFさんからのお手紙
(本人:女性、入会時11歳、現在21歳、紫斑病性腎炎)
レインボー会
矢野真理子様
ご無沙汰しております。○○○○○の母です。
先日のお手紙のお返事が遅くなり、申し訳ございません。
娘は現在看護大学の四年生になりました。助産師を目指して今は卒業論文と来年2月の国家試験に向けての勉強に追われている毎日です。
大学に入学してからは尿の検査も必要ないと言われ、病院も卒業しました。主人と相談した結果、試験が終わるまではもう少し学業に専念させてあげたいので、闘病時のことについては本人には聞かないことにしました。申し訳ありませんが、落ち着くまでもう少しお返事にお時間を下さい。
娘は小学5年の時に入院生活を送っていましたが、小さいお子様が罹患なさった場合、本人は勿論ですが、ご家族も悩まれることが多いですよね。私が答えられる範囲のことを少しですが、書かせていただきます。
質問1について
娘の場合、下肢に紫斑が出て状態が悪い方へ悪い方へ進み、私もよく分からないまま入院となってしまいました。急性期は腹痛も伴いとても辛そうで、私は娘の側からは離れられず付き添いました。
状態が落ち着いてからも小5とはいえ心細いだろうとずっと側にいました。腎生検、パルス治療を本人にはなるべく分かりやすく説明をし、その度声をかけるようにしました。検査も治療も大変だったと思いますが、よく頑張ってくれました。
慢性病棟に移り、病院の中の学校に転校し、同じ年代の慢性疾患の患者と共に過ごし、そのころから食事の塩分のことなど、先生や看護士さんから教えてもらい、自分の病気とも少しずつ向き合えてきた気がします。ただ、なかなか蛋白尿が回復せず本人は口にはしませんでしたが、先が見えない不安は母子ともにあったと思います。
質問2について
腎康丸は量も多く、味も苦いので始めは苦労しました。最終的にたどり着いたのは私が腎康丸を小さく丸く丸め一個ずつオブラートに包み、小さい錠剤にしました。大きな一粒の腎康丸を12〜13個にして服用させました。オブラートに包んだため、苦みはなくなりましたが、毎回小さい粒とはいえ量が多かったので、始めは時間がかかっていました。ですが、慣れてくると1回に小さな錠剤を3個ずつ位飲んでいたのでそれ程時間をかけず飲むことができました。
質問3について
病院の学校に転校して5ヶ月位通いました。色々な疾患の友達できて、1クラス3〜4人で先生方にもよくしてもらいました。学校生活は自分の疾患についても勉強し、色々な経験をさせてもらい楽しそうでした。
小6になり、元の学校に戻りましたが、小5の担任の先生によくしていただき、小6の担任も引き続きしてもらえるようにしてもらいましたので、比較的スムーズには戻れたとは思います。病院の外泊時にも元のクラスの友達と遊んでもらっていました。ただ、学校のスポーツ少年団(バレーボール)に所属していて、練習に戻りましたが、一見、前のように接してもらっているようでも、やはり少しの期間、学校生活も練習も離れていたためか親から見ても少し違和感みたいなものがあったので、本人は何も言いませんでしたが、多少戸惑いはあったと思います。たまたま同学年の女友達に娘と同じ病気になり、同じような経過を過ごした方がいて、二人で話をしていました。とても心強かったと思います。私もその子のお母さんに話をよく聞いてもらい、助けられました。やはり経験者とお話ししてもらうことは大切だと思います。
質問4について
やはり再発についてはいつも考えています。原因が分からないので少し体調を崩すだけで、心配になります。後、将来結婚、出産となった時に腎への負担は大丈夫だろうかと不安です。
以上、本人からの話ではないので参考にはならないと思いますが、矢野さん達のされているレインボー会にも当時大変お世話になりました。本当に色々な方に話を聞いてもらい、親の精神状態が少しでも落ち着くことで、子供への接し方や態度も変わっていくと思います。
また、娘にも話を聞くことが出来たらお便りします。お身体に気を付けて下さい。
下のお手紙は上記のFさんの娘さん(患者本人)から頂いたものです。先日、こちらから質問の手紙をお送りした時、娘さんは丁度卒業論文と国家試験の準備でお忙しい時期でしたので、お母さまはとりあえず上記の文面を書いて送って下さいました。最近学業が一段落した娘さんは自ら以下のお手紙を送って下さいました。患者本人の目線で闘病時の状況を詳しく書いて下さり、とても参考になる内容です。そして何よりも嬉しいのはこの方がこの度看護師、保健師、助産師の三つの国家試験に見事に合格し、今月から助産師として病院でのお仕事をスタートしたことです。本当に良いニュースで、ご活躍を心から願っています。2018年4月13日
レインボー会
矢野真理子様
返事が遅くなってしまい申し訳ありません。○○○○○と申します。今回お手紙を頂いたことを嬉しく思うと同時に、自らの経験が少しでも助けになればという思いで書かせてもらいます。
質問事項に沿って返答していきます。
1、小学校5年生の時に紫斑病性腎炎を患いました。足を中心に紫斑が現れ、腹痛を伴い、小児科にて突然の入院が決まった時は信じられないという思いと不安、恐怖から泣きじゃくっていた覚えがあります。きっと様々な思いが生まれたのだろうと思いますが、今になって思い起こすと病気について知識が未熟な子供にとっていきなりの入院となれば、気持ちの整理に多くの時間がかかると思います。(ちなみに、私の場合は、寂しさや不安から、入院中何か月か母親に24時間付きっきりで居てもらわないといけない状態でした。小学校5年生としてはお恥ずかしいなと今は思いますが、それほどの精神的に参っていたのも確かです。)
入院してからは、治療法がまだわかっていない病気であったため、腎臓に負担をかけないための減塩食や副腎皮質ステロイド薬によるステロイドパルス療法を主に行い、そこにプラスして両親が取り寄せてくれた、腎康丸を毎日服用していたのを覚えています。また、検査では腎生検をしました。特にステロイドパルス療法や腎生検後、殆どベッド上での生活になったのが辛かったです。ベッド上での排泄は羞恥心が伴いますし、私はスポーツが好きでずっとバレーボールをやっていましたから、運動ができなくなること、チームのみんなにおいていかれることに対して恐れを抱いていました。
どのようにしてほしかったのかという問いに対しては、少し違うかもしれないですけど、入院中自分の救いになったことを答えます。まずは、同年代の同じように病気と闘う子供と仲良くなる機会があるということです。私の場合すごく運が良かったのかも知れないですが、同い年の女の子と隣の病室になり、毎日どちらかの病室を訪れて遊んでいました。憂鬱だった入院生活がすごく楽しく感じられるひと時でした。親同士も親が抱える苦労や不安を共有でき、共感できることで気分転換になるのではと思います。また、両親が私の目の前で病気になったことに対して悲しんでいる姿を見せなかったことも有り難かったです。悲しむ姿というよりは、私のために腎康丸を探してくれたり、飲みやすいようにしてくれた姿、外泊日には家族みんなで減塩食を一緒に食べてあたたかく見守ってくれたことにとても愛情を感じ、寂しさという感情が和らいだと思います。
2、腎康丸の服用は母からも聞いているかも知れませんが、飲み込める程度に一つ一つ丸めてもらい、オブラートで包んで味が分からないようにしてくれていました。数は多くなるけど、数に慣れたら本当に苦みも少しなので飲みやすかったです。
3、学校については、まず、入院して状態が安定してからは病棟を移動し、病院に併設されている学校に一度転校し新たな出会いがありました。そこでの思い出は楽しいものばかりで、友達に恵まれたと思っています。勉強は遅れがあるという不安はありましたが、授業を受けて、宿題をして、少しずつ元の生活に慣れていく状態になったので有り難かったです。病院を退院してからは、元の学校に戻りましたが、最初はみんなと会うのが少し不安でした。暫く会えていなかった友達に、入院前より運動していないせいか太ってしまった自分をどう思われるか気にしたり、バレーボールをみんなより下手になってしまったことにショックを受けたり、周りを気にすることが多かったと思います。自分がその時どのように対処したのか記憶にないのですが、担任の先生がよく気に掛けてくれていたのは安心感がありました。
4、悩んだことは、もし病気が治らなかったらどうしようという悩みや、副作用による自分の見た目のこと、学校に馴染めるかや元の学校でまた同じようにやっていけるかということについて、記憶に良く残っています。
あまり為にならない内容かもしれませんが、少しでもお力になれば幸いです。ちなみに近況としては、今年、看護師、保健師、助産師の国家試験に合格でき、4月から病院にて助産師として働く予定です。病院の道を目指すきっかけとして病気の経験が大きかったと思います。今、こうして元気に夢を目指していけるのはレインボー会の皆さま含め支えてくださったすべての方々のお蔭であると実感しています。本当にありがとうございました。
●宮城県のGさんからのお手紙
(女性、入会時10歳、現在18歳、紫斑病性腎炎)
レインボー会
矢野真理子様
拝啓
お久し振りです。
娘はお蔭様で元気に高校生活を送っています。お手紙ありがとうございます。娘の場合は病院で治療は受けず経過観察だけでしたので参考にならないかも知れませんが、少しでもお役に立てたならと思います。
最初の頃は紫斑がたくさん出た足を見て泣いていました。痛くて歩くことができず安静にしていなければいけませんでしたので学校を2週間ほど休みました。ベッドで本を読んだり寝たりしていました。早くクラスのみんなと勉強したい、体育ができるようになりたいと言って泣いていました。学校に行けるようになるとみんなに「どうしたの?どこが悪くて体育ができないの?」と聞かれ、うまく答えられず「腎臓の病気の為足が痛くて…」と言っていたようです。お友達から病気のことを聞かれることがとても嫌で辛かったようです。
最初の病院では(病気になりはじめの頃)、プレドニンを処方され飲んでいましたが、娘には長い期間プレドニンを飲むことは副作用のこともあり良くない薬だと話していました。
宮城○○○病院に通院するようになってからは半月に一度通院し尿検査をしたり2ヶ月に一度血液検査をする状況でプレドニンは処方されませんでした。病院に行き、尿検査をするたびに「どうか潜血も蛋白もマイナスでありますように」と念じていました。数ヶ月経ってもなかなかマイナスの数値にならなかった為、病院の先生から腎生検をしましょうと言われました(腎康丸を服用し始めてまだ間もない頃でした。)
病院の先生に「今腎康丸という中国のお薬を飲み始めています。もう少し飲んで様子を見たい」と話し、腎生検をうけることを先延ばしにしてもらいました。娘の身体に傷をつけること、また精神的負担をかけるようなことはどうしても避けたかったのです。
経過観察をしているうちに血液検査の項目の中のアンカという数値が下がってきた為、続けて経過を見ることになりました。病院の先生は腎康丸の効果だと認めるわけはありませんでしたが、少しずつでしたが、良い方向に向かっていましたので結果、腎生検は受けずにすみました。
娘には腎生検のこと、プレドニンという薬の副作用のことなど説明しました。「東洋のお薬、腎康丸を飲んで治そう、必ず治るから、今はこれしか治す方法が見つからないから頑張って飲もうね」と話しました。
レインボー通信を見て、腎康丸を飲んで頑張っている人がたくさんいることや治った人がいることを知ることにより信じて頑張って飲もうとも思ったようです。
「この腎康丸という薬を知り、飲むことができるなんてとても幸せなこと、病院での辛い治療に比べたら苦い腎康丸を飲むことぐらい頑張れるよね。必ず治るからね」と話して飲ませていました。
娘は素直に受け止め、丸い腎康丸をかんで小さくかみ切って、いやそうな顔をしながらも飲んでいました。病院での血液検査のアンカの数値が正常値に近づいていったことにより、腎康丸のお蔭で良くなっていると実感することが出来てからは積極的に飲んでくれるようになりました。なかなか経過観察が終わらず辛いこともありましたが、今こうして元気に学校生活を送ることが出来ているのは腎康丸という薬との出会いがあったからだと思っています。レインボー会矢野様のお蔭で今こうしていられることに心から感謝しております。ありがとうございます。
敬具
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